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6月26日はトミ・マキネンの誕生日(世界ラリー選手権チャンピオン)

6月26日はトミ・マキネンの誕生日(世界ラリー選手権チャンピオン)

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湖畔のサウナでシミュレーション、優勝し世界一のチームへ

1964年6月26日、のちに世界ラリー選手権で複数回チャンピオンになるトミ・マキネンが、フィンランド中部ユヴァスキュラ近郊のプーポラで誕生しました。農家の子として育ったマキネンは、毎年、身近を駆け抜ける夏の風景として「1000湖ラリー」を見て育ちました。マキネンは、農機具、自転車、カートまで「動く機械」なら何でも好きで、18歳のときには、国内の耕うん競技で王者にもなっています。オートクロスを経て、1985年にフォード・エスコートRS2000でラリーを開始。1987年の「1000湖ラリー」でWRC(世界ラリー選手権)に初出場し、翌年にはランチア・デルタHF 4WDでフィンランド選手権のグループNを制しましたが、このときメカニックとして整備を担っていたのは報酬なしで集まった友人たちでした。

※この部分の出所はDirtFish記事

1990年からユハ・カンクネンや、マネジャーとなるティモ・ヨウキの助けで世界戦を本格化させます。しかし1991年にハンヌ・ミッコラの口利きで得たマツダの席は同社撤退で消え、将来性を信じて選んだ日産も翌年に計画を縮小しました。前輪駆動車の開発に回った1993年を、マキネン本人は、のちに運転と車作りへの理解が深まった「大きく成長した年」だったと振り返っています。1994年、WRCへの最後の参戦としてエスコート・コスワースを借りる覚悟をしたところ、代わりにフォードのワークス車が巡ってきました。前哨戦で王者カンクネンを破ったあと、本番の前夜は故郷の湖畔のサウナで、各ステージを頭の中に再生し綿密なシミュレーションを行いました。競技中にはターボ配管が外れるも、競技ステージ中ではなく移動区間であったなど幸運にも恵まれ、「1000湖ラリー」で優勝し、初制覇を果たしました。「あの一戦から世界選手権でのキャリアが始まった」と振り返る、遅咲きの大転機となりました。

※ここ部分の出所はWRC公式サイト

ランサーエボリューションを駆りWRC世界チャンピオンに

1995年、マキネンは三菱自動車のワークス活動を担うラリーアートに正式加入します。ただし、後に代名詞となるランサーエボリューションとの出会いは、「一目ぼれ」では全くありませんでした。操舵の手応えが明快だったフォードに比べ、初めて乗ったランエボは前輪の感触が薄く、強いアンダーステアを示したため、「これでは何もできない」とまで訴えたそうです。ところがテストドライバー、ラッセ・ランピの中立的なセットへ戻すと印象は一変し、好タイムを並べたことが、ワークス契約の決め手になりました。ただし、初年度はモンテカルロ4位、スウェーデン2位と散発的な結果に留まりました。

マキネンの活躍は、1996年から始まりました。同年にはスウェーデン、サファリ、アルゼンチン、1000湖、オーストラリアの9戦5勝で初のWRC世界チャンピオンを獲得します。約2400キロを走るサファリでも、壊さないだけでなく常に全開で「スプリントのように」攻め切ったのが彼らしい走りでした。1997年以降、スバルやフォードが開発自由度の高いWRカーへ移るなか、三菱は市販車との結び付きが濃いグループAを貫き、ランエボIIIからVIで1996~99年の4連覇を達成します。スバル・インプレッサを駆る最大のライバル、コリン・マクレーとの争いは、本人いわく「120%以上の全開」で、どちらか、時には双方が脱落するほどでした。象徴的なのは1998年最終戦です。主催者が知らせなかった路面の油でマキネンは早々に脱落しましたが、王座目前のカルロス・サインツもゴール約500メートル手前でエンジン停止。兄の電話で戴冠を知った彼は、歓喜より「こういう終わり方ではなかった」と複雑な思いを口にしました。しかし、この年は三菱が初メーカー王座となり、市販車「トミ・マキネン・エディション」が発売になるなど、ドライバーと車が一つのブランドになった黄金の時代でした。

※この部分の出所はMotorSports記事

三菱ラリーアートの凋落とマキネンの引退

しかし、成功を生んだグループAへの固執は、やがて三菱の弱点になります。2000年にはWRカー勢に対しサスペンションストロークなどの不利が表面化し、複雑なばね構成や足回りの改修を重ねても勢力図は傾きました。それでも2001年前半、マキネンは熟成した「エボ6.5」でモンテカルロ、ポルトガル、サファリを勝ち、選手権をリードします。転機となったのは10月に投入されたランサーWRCでした。開発期間は約1年にすぎず、車体までWRカー規定に沿って根本設計する余裕がないまま実戦へ出たため、後半4戦でマキネンが完走できたのは一度だけです。ツール・ド・コルスでは大事故を喫し、長年組んだリスト・マンニセンマキも背中を負傷して第一線を離れました。

こうしたトラブルから、家族のようだった三菱ラリーアートを去り、2002年にプロドライブ運営のスバルへ移籍すると、初戦モンテカルロでいきなり通算24勝目を挙げます。ただし路上の最速は若きセバスチャン・ローブであり、シトロエンへのペナルティによって後日確定した、本人にも割り切れなさの残る勝利でした。その後はスバル・インプレッサへの適応と相次ぐリタイアに苦しみ、もう優勝することはありませんでした。2003年には「家族や農場に使う時間がなかった」と引退を決断します。最終戦ラリーGBでは旧敵マクレーを抑えて3位に立ち、同僚ペター・ソルベルグの初王座を見届けます。目を潤ませながら「20位ではなく3位で終われてよかった」と語り、マキネンは16年に及ぶWRC生活を閉じました。

トヨタ・ガズー・レーシング・WRTのチーム代表として再度世界王者に

引退後も、マキネンはラリーから離れませんでした。2004年にトミ・マキネン・レーシング(TMR)を設立し、グループN車の製作や若手支援を通じて、速く走る技術を「速い車と組織を作る知識」へ変えていきます。

次の転機となったのは、日本でスバル関連の仕事をしていた2014年1月に、豊田章男社長に直接ドライビング指導を依頼されたことでした。東京で予定された15分の顔合わせは約1時間に延び、互いに昔から知るような相性を感じたといいます。豊田章男氏も、後に、マキネンと会って初めてWRC復帰を決断できたと述べていました。2015年1月にはトヨタのWRC復帰が発表され、同年夏にマキネンが「トヨタ・ガズー・レーシング・WRT(World Rally Team)」のチーム代表に就任することが発表されました。車体開発拠点はマキネンの所有するフィンランドのTMRの施設を拡張し、エンジンはTMG(Toyota Motorsport GmbH)で開発しました。こうしてできたヤリスWRCで、トヨタは2017年にWRCに復帰しました。

新チームでは「全開か、何もしないか」を合言葉に、三菱時代の家族的な空気と、設計・開発を内製する機動力の両立を目指します。2016年には拠点を半年間スペインへ移し、ほぼ毎日走れる環境でヤリスWRCを約2万キロテストし、自らも約5000キロを運転しました。 2017年の復帰初戦のモンテカルロで2位、次戦スウェーデンで早くも優勝。2018年には復帰2年目でメーカー王座を獲得し、WRCの世界タイトルをドライバーとチーム代表の双方で手にした最初の人物となります。2019年にはオット・タナク、2020年にはセバスチャン・オジエをドライバー王者へ導きました。ポルトガルでタナクのブレーキ系統が損傷した際、無線を聞いて「ペダルを何度も踏め」と助言し、走行を立て直させた逸話にも、元王者の強みが表れています。

マキネンは2020年末に代表を退き、翌年からトヨタのモータースポーツ・アドバイザーへ移りました。しかし、その名は今もラリーの世界で知らない人のない、伝説のままです。

上田 祐介
上田 祐介
チーフインベストメントストラテジスト
JTG証券経済調査室長 兼 チーフインベストメントストラテジスト。クオンツアナリストとして職歴を開始。その後は複数の大手外資系投資銀行などで主にクレジット市場関連の業務を歴任。海外クレジット市場の分析に強み。

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