由良拓也、レーシングカーデザインの先駆者(8月21日)

手作りのデザインから、ムーンクラフトを設立
由良拓也氏(以下、敬称略)は、1951年8月21日に東京都で生まれた。由良は、日本のレーシングカーデザインが産業として確立する以前から車両製作に携わってきた。本人は2023年の日本建築家協会のインタビューで、工業デザイナーだった父の仕事場でクレイモデルを見ながら育ち、幼い頃から粘土細工や自動車の絵に親しんだと語っている。
20歳頃にはFRP製ボディーの仕事を個人で請け負い、1971年には初期作品のパシフィックF2000を手掛け、1972年にフリーとして活動を開始。1975年にはレーシングカーの開発・製作を専門とするムーンクラフトを設立した。風洞や数値解析が一般的でなかった当時は、造形、製作、実走、修正を繰り返しながら空力の知見を蓄積する時代であった。
2代にわたる"紫電"
初期の代表作の一つが、1977年の富士グランチャンピオンレースに投入された「紫電77」である。ムーンクラフトの回顧録によれば、1975、76年の富士GCを制した高原敬武のチームが、翌年に向けてオリジナル車両を製作する計画を立て、森脇基恭がシャシー、由良がボディーカウルを担当した。富士スピードウェイの長い直線で最高速を伸ばすため、当時としては珍しいクローズドボディーを採用したが、車体に生じる揚力、操縦安定性、雨天時の視界などに課題が残り、競技成績には結びつかなかった。由良は後年、当時は空力理論よりスタイリングを先行させる面が強く、紫電は外観への評価に反して「ちゃんと走りませんでした」と振り返っている。その名称は2006年のSUPER GT用車両の紫電に継承され、2007年にGT300クラスのチームタイトルを獲得。2012年まで7シーズンにわたり参戦した。

マツダ初のル・マンでのクラス優勝
また、1983年のマツダ717Cは、由良とムーンクラフトの仕事が国際耐久レースに結びついた代表例である。同年、マツダオート東京のモータースポーツ部門はマツダスピードへ発展し、本格的なプロトタイプ車両によるル・マン挑戦を進めた。717Cではムーンクラフトがシャシーとボディーを設計し、シャシー製作はアストニッシュが担当。13B型ロータリーエンジンを搭載し、当時のグループCジュニアに参戦した。ル・マンの長い直線に対応するため空気抵抗の低減が重視され、マツダの公式資料によればCD値は0.277まで抑えられた。丸みを帯びた外形から「そら豆」と呼ばれた一方、低抵抗と車体を路面へ押し付ける力との両立は難しく、コーナーや路面の起伏では不安定さもあった。それでも1983年のル・マン24時間では2台が完走し、同クラスの1位と2位を占め、マツダに初のル・マンでのクラス優勝をもたらした。

ムーンクラフトの吸収合併
由良拓也の活動は、レーシングカーのデザインだけにとどまらなかった。ムーンクラフトは1986年に社内風洞を設け、1988年にはカーボン製品用のオートクレーブを導入し、その技術を航空機部品、工業製品、ドローン、競技用カヌーなどへ広げた。由良自身も、カヌーでは自動車で培った流体力学の理論がそのまま通用せず、選手の意見を基に試作を重ねたと語っている。
2025年に創立50周年を迎えたムーンクラフトは、2026年4月1日付で東レ・カーボンマジックに吸収合併され、法人として消滅した。ただし、事業と御殿場の拠点は同社に承継された。公式発表によれば、由良は役員を退任し、合併後の会社の役員・従業員には就かなかった。(今後も、自身が役員を務める会社を通じて支援を続ける予定。)由良が半世紀にわたりムーンクラフトを率いた、日本のレーシングカーデザインの歴史に一区切りが付いたのである。