日本を作った神武天皇も苦心したメディア戦略

2月13日は、神武天皇の誕生日
2月13日と聞いて、多くの人はただの冬の一日を思い浮かべるかもしれません。ですが、伝承の世界では、この日は日本という国づくりの始まりに関連した日でもあります。『日本書紀』に書かれた初代天皇であり日本の国づくりを行った神武天皇の誕生日は「庚午年正月朔日――この日を西暦に置き換えると紀元前711年2月13日に相当するそうです(諸説あり)。
神武天皇は即位後につけられた名で、もとの名はカムヤマト・イワレビコ(神倭伊波礼毘古命)と言いますが、以下では分かりやすく、即位前についても神武天皇と呼ぶことにします。
神武天皇の国づくりにおける権威
日本書紀において、神武天皇は、日向から大和へと向かう東征を進めていきます。しかし、ゼロからの国づくりは、ただ軍隊で征服すればなしえるわけではありません。一つの国を作り、まとめていくためには求心力、すなわちこの時代では「権威」が必要になります。このため国としての体裁を整えつつ統一を果たすために、さまざまな工夫がされています。
そもそも神武天皇が東を攻めた理由は、自らが日の神の子孫であり、日をつかさどる天照大神から国を授かったという天孫系譜をなぞることで「まだ王化が及んでいない東の地」を日の出る場所として“六合の中心”である都にすることがふさわしいと考えたからです。また、神々との交流・瑞兆・祭祀などの逸話を多く入れることで、神武天皇は「天意を得て、道と勝利を開く」と自らの覇道を正当化しています。例えば、① 神剣の授与:熊野で軍が動けなくなった際、夢のお告げにより武甕雷神が剣を授け、結果、彼の軍勢が回復する。②八咫烏(やたがらす)の導き:天照大神の夢のお告げで八咫烏が遣わされ山中の道を案内されるなど、「国を開く道は天意により示される」という逸話が織り込まれています。
神武天皇のメディア戦略
しかし、部下である軍人や官僚だけではなく、一般民衆も取り込まなければ、国を一つにまとめることはできません。そこで彼が用いたのが、「ことば・儀礼・文化」による統合です。いわば、「軍と民を“同じ物語”にまとめる」という手法です。例えば、各地を巡幸する国見によって国の姿を言語化し、民衆の前で国号を新たにつけることで地域の一体化を図りました。また、来目歌(久米歌)を軍人と民衆の共通のメディアとして活用し、勝利祈願や士気鼓舞、宴席での合図(歌声を合図に一斉行動)などで用いることで、集団を統率する“メディア”として活用していました。さらに、「正しい言葉(諷歌・倒語)」を用いれば妖気を払うことができるとして、正しい言葉(権威)を、国の統治手段として利用しました。
現代日本政治におけるメディア戦略
神武天皇が行った国づくりとは、新たな「秩序の立ち上げ」です。国をまとめるには、道を得て、人びとをまとめ、言葉(歌)と祭祀を通じて共同体の核をつくらなければなりません。神武天皇は、生まれも高貴で武勇の優れた英雄でありましたが、彼でさえも国の中で社会を一つに束ねる“カリスマであり中心”と広く国人に認識され支持されるためには、メディア戦略の活用が必要だったのです。
現代の社会では、政治家が自らの権威を得るために用いるメディア戦略も大きく変わりました。今でも権威主義の国では、情報統制により権威を維持しようとします。しかし誰もが情報を発信可能なネット社会となった民主主義の国では、政治家や伝統的メディアからの一方方向ではなく、国民の側からも多くの情報が発信され双方向に飛び交います。こうした社会では、広く国民の声に耳を傾け、そこにより良い社会に向けた手段を丁寧に提案し、可能性を示すことができる政治家が、政治の権威を作るためのメディア戦略に勝ちやすいことになります。
ただし、ポピュリズムに陥りやすいのが、こうした政治とメディアの新たな関係の特徴です。よって、イメージだけに流されるのではなく、その裏付けとなっている政策情報についても、国民の側がそれぞれ、より深く理解しようと自ら努力することは、自分たちの国を強固で安全にできるかどうかという点で、これまで以上に重要になるでしょう。
