百日の熱気と終焉の静けさ:3月20日は百日天下の始まり
ナポレオンの百日天下
1815年3月20日は、再起を果たしたナポレオンがパリに入場し、百日天下が始まった日です。1814年春に退位してエルバ島へ渡ったナポレオンは、復古王政への不満の広がりや、自身の将来への不安を背景に再起を決意し、1815年2月末に島を出て、3月1日にフランス南岸へ上陸しました。彼は王党派の強い地域を避けるようにアルプス近くの山道を抜けて、村から町へと北上していきます。7日、ラフレーで自分を止めに来た兵士たちの前へ進み出ると、兵士たちは発砲するどころか彼に合流し、その夜にはグルノーブルへ、10日にはリヨンへ入りました。王政府は彼を反逆者として追討しようとしましたが、流れはもう逆転しつつあり、18日にはネイ元帥まで味方に回ります。19日深夜、ルイ18世はテュイルリー宮殿を離れ、20日、ナポレオンはパリへ入りました。ここに、ナポレオンの百日天下が始まりました。
こうした空気の変化は、しばしば「パリの新聞の表記の変化」で象徴的に語られています。後世には「人食い鬼」「コルシカの鬼」「虎」「怪物」「暴君」「簒奪者」から「ボナパルト」「皇帝」へと変わった、という有名な並びが伝えられています。しかし、実際の『ル・モニトゥール』には見出しそのものがなく、これは後年に整理されて広まった逸話でした。

ナポレオン神話と百日天下の終焉
パリへ戻ったナポレオンの前に開けていたのは、かつてのような単純な栄光だけではありませんでした。彼は支持を広げようとして帝国体制に自由主義的な修正を加え、旧敵だったベンジャマン・コンスタンのような人物まで引き寄せますが、社会のあちこちには「また戦争が始まるのではないか」という疲れと警戒もありました。さらに、3月25日にはオーストリア、イギリス、プロイセン、ロシアがあらためて対ナポレオン同盟を結び、列強は彼をヨーロッパ秩序の外に置く姿勢を固めます。
ナポレオンは、連合軍が十分に集まり切る前にベルギー方面で先手を打とうとし、6月半ばにパリを発ち、15日にサンブル川を越え、16日のリニーではプロイセン軍に打撃を与えますが、敵を決定的に崩すことはできませんでした。そして運命の18日、全盛期の決断力を失っていたナポレオンは、ワーテルローにおいて攻撃開始を正午まで遅らせたことで、グルーシー元帥の別動部隊と連携できないままに、ブリュッヘル率いるプロイセン軍の集結を許してしまいます。最後の望みを託した親衛隊の突撃が打ち返され、総崩れの退却になりました。21日にパリへ戻ったナポレオンは、翌22日に二度目の退位をします。こうして彼の百日天下は、帰還の鮮やかさと同じくらいの速さで、終幕を迎えました。

セントヘレナ島での余生
ワーテルローののち、ナポレオンはなおアメリカへの脱出を思い描きましたが、それはかなわず、7月15日に英艦ベレロフォン号へ身を委ね、10月15日、南大西洋の孤島セントヘレナ島へ送られます。最初の数週間は、バルコム家の庭にあるブライアーズの小さな住まいで過ごしました。ここでは快活な少女ベッツィーの存在が、沈みがちな日々にわずかな明るさをもたらしたと伝えられています。
しかし、その後ロングウッドへ移ると、暮らしはしだいに閉ざされていきました。島内の移動には英国士官の同行が必要でしたが、彼はその条件を嫌い、敷地の中にこもることが多くなります。そのかわり、彼は自らの戦役や判断の意味を語り、書き、記憶を編みなおしました。セントヘレナ島での生活は、敗れた皇帝の晩年であると同時に、自分の歴史を自分の言葉で残そうとする、最後の仕事の時間でもありました。
やがて総督ハドソン・ローとの関係は悪化し、接触は制限され、側近同士の不和も深まり、希望は細っていきます。1820年ごろから健康は目に見えて衰え、1821年5月5日午後5時49分、ナポレオンはロングウッドで息を引き取りました。
個人の能力だけで歴史を動かした英雄は、これ以降の歴史には現れませんでした。
